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風土の知恵

宮沢賢治

Miyazawa Kenji·1896–1933·日本·

世界がぜんたい幸福に ならないうちは、 個人の幸福はあり得ない?

花巻の質屋の長男から羅須地人協会へ、法華経と農と童話を一つに生きた詩人

  • 雨ニモマケズ
  • 法華経
  • 農と童話
冷害と飢饉が繰り返す、明治から昭和の岩手 — ひらく

時代の空気

明治末から昭和初期、岩手県稗貫郡花巻町。北上山地の麓は冷害と飢饉が繰り返し襲い、明治三陸津波・陸羽地震の年に賢治は質屋・古着商の長男として生まれた。盛岡高等農林学校で土壌学と農芸化学を学ぶ一方、田中智学の国柱会と日蓮主義に帰依し、浄土真宗の父との信仰対立を抱える。エスペラントと地学・天文学・童話への没頭、生前無名のまま二冊の自費的刊行を残し、没後に弟と草野心平らが手帳と遺稿を発掘して国民的詩人へと押し上げる、その手前の静かな時代である。

01最期の仕事

1933年9月20日、夕方。岩手県花巻町の商家に、一人の農民が訪ねてきた。畑の肥料について相談したい、という。

応対に出たのは、この家の長男だった。結核の末期で、もう長く床についている。37歳。それでも彼は床から起き上がった。そして1時間あまり、肥料の設計を説明した。

翌日の正午ごろ、彼は死んだ。前日の相談が、最期の仕事になった。死の間際、父に残した頼みはひとつ。(仏教の経典)を1000部刷って、知人に配ってほしい ― それだけだった。

彼の名は宮沢賢治。生前、その名はほとんど知られていなかった。なぜこの人は、死の前日まで、よその家の畑のために起き上がったのか。その「なぜ」に答えるには、37年をさかのぼる必要がある。

02質屋の店先で

1896年、賢治は岩手県花巻の商家に生まれた。生まれた年の夏、三陸を大津波が襲い、生後4日で大地震が来た。天災の年に生まれた子だった。

家は代々の質屋しちや古着商ふるぎしょうである。質屋は、品物を預かってお金を貸す商売だ。店先には、暮らしに困った百姓が来る。着物や農具を置いて、わずかな金を借りていく。子どもの賢治は、その光景を毎日見て育った。

本人は石が好きで、「石っこ賢さん」と呼ばれる子だった。だが困った人からお金を取る家業には、深い後ろめたさを感じていた ― と、のちに弟の清六は回想している。2歳下の妹トシは、生涯でいちばん深く心の通った相手になる。

家業への違和感は、消えなかった。それがやがて、この長男の進む道を決めていく。

03土と経典

13歳で盛岡の中学校に入り、短歌を詠みはじめた。19歳で盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学する。学んだのは土壌学 ― 土の科学である。冷害に苦しむ岩手の田畑を、科学で立て直すための学問だった。

だが跡継ぎを期待する父との緊張は、深まる一方だった。そこに、もうひとつの出会いが重なる。20代半ば、賢治は法華経に深く帰依した。国柱会こくちゅうかいという在家の信仰団体に入り、24歳の1921年1月には父と衝突して家を出た。東京で布教を手伝いながら、童話を猛烈な勢いで書いた。

父は熱心なの門徒である。息子は法華経へ改宗し、家族にも改宗を迫った。父と子の信仰の対立は、生涯続く主題になる。

その年の8月、電報が届く。妹トシが倒れた、という報せだった。賢治は童話の原稿をトランクに詰め、花巻へ帰った。

04永訣の朝

帰郷した賢治は、25歳の12月から稗貫農学校ひえぬきのうがっこう(のちの花巻農学校)の教師になった。農業と化学と英語を教えた。生徒を鉱物採集に連れ出し、劇をやらせる、風変わりで慕われる先生だった。

1922年11月27日、トシが結核で死んだ。24歳だった。その日、賢治は妹の枕元で詩を書いた。「あめゆじゆとてちてけんじや」 ― 雨まじりの雪を取ってきて、という花巻の方言のトシの声が、詩「永訣えいけつの朝」に刻まれている。この日を詠んだ三篇は、日本の近代詩の頂点のひとつに数えられる。

2年後の1924年、賢治は自分のお金で詩集を1000部刷った。自らのジャンル名は「心象スケッチしんしょうスケッチ」。続けて童話集『』を800部出した。生前に世に出た本は、この二冊だけである。どちらも、ほとんど売れなかった。

詩集は売れなかった。それでも賢治は、さらに大きな一歩を踏み出す。安定した教師の職を、捨てたのである。

05本当の百姓になる

1926年3月、29歳の賢治は農学校を辞めた。理由は「本当の百姓になるため」。町はずれの別宅で一人暮らしを始め、自分で畑を耕した。そして8月、羅須地人協会らすちじんきょうかいを開いた。

協会は、近くの若い農民たちが集まる私塾だった。教えたのは、肥料の設計と農業の化学。それにセロ(チェロ)の練習、レコード鑑賞、劇の上演、(国際共通語をめざして作られた言語)まで。畑の技術と芸術を、同じ場所で教えた。肥料設計書を持って近くの農家を歩き、相談料は取らなかった。

その理念を書いた草稿「」に、賢治はこう記す。「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい」。そして、この一行が続く。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

「農民芸術概論綱要」序論(1926年頃、羅須地人協会の理念草稿)

だが実践は、理念のようには進まなかった。集まりは特別高等警察とくべつこうとうけいさつ(思想を取り締まる警察)に社会主義運動と疑われた。1928年8月、賢治は過労の果てに肺結核で倒れる。協会の活動は、2年あまりで終息した。

それでも賢治は、肥料の相談だけはやめなかった。なぜか。

06手帳のなかの祈り

1928年の暮れ、賢治は高熱で東京の病院に運ばれ、一時は危篤になった。以後、病床と短い回復を行き来する日々が続く。

1931年、少し持ち直した賢治は、東北砕石工場とうほくさいせきこうじょうの嘱託(非常勤の技師)になった。売り歩いたのは石灰の肥料である。岩手の田畑は土が酸性に傾き、作物が育ちにくい。石灰はそれを直す。土壌学を学んだ人間にできる、いちばん具体的な応答だった。

その年の9月、営業のため上京した東京で病が再発する。高熱と喀血。死を覚悟した賢治は、黒革の手帳に鉛筆で、ある文章を書きつけた。日付は11月3日。誰にも見せなかった。

風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ。

黒革手帳への書き付け(1931年11月3日、病床の自戒)

「雨ニモマケズ」は、発表するための詩ではなかった。丈夫な体を持てなかった人が、なりたい自分を書き出した、祈りに近い覚え書きである ― そう読まれてきた。手帳はトランクの底に眠る。そして病床の賢治が最後まで手を入れ続けたのは、この手帳ではなく、童話だった。

07未完の銀河

最晩年の2年間、賢治は床に伏したまま童話を書き直し続けた。『』『風の又三郎』『グスコーブドリの伝記』『セロ弾きのゴーシュ』。いずれも生前には発表されていない。

『銀河鉄道の夜』は、少年ジョバンニが親友カムパネルラと銀河を渡る夜汽車の物語である。完成稿はなく、複数の草稿が残された。カムパネルラは途中で消える。水に落ちた友を救って、死んだのだった。妹を亡くした賢治の挽歌(死者を悼む歌)と、この物語は深いところで重なっている。

作中でジョバンニは問う。「ほんたうのさいはいは一体何だらう」。ほんとうの幸いとは何か ― それは、この物語を書いた本人が生涯抱えた問いでもある。その問いを抱えたまま、賢治は1933年9月20日の夕方に戻ってくる。

089月20日に戻る

死の前日、床から起き上がって肥料の相談に応じた1時間。それは特別な行動ではなかった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いた人が、自分にできる幸福の増やし方を、最後まで実行しただけである。手帳の「雨ニモマケズ」には、こうも書かれている ― 東に病気の子どもがあれば行って看病してやり、西に疲れた母があれば行ってその稲の束を負い。彼は、書いたとおりに死んだ。

没後の賢治には、書かなかった続きがある。葬儀は浄土真宗の菩提寺で行われた。父の宗派である。のちに父は息子の遺志を汲み、法華の寺にも分骨した。生涯の宗派対立は、父のこの選択で静かに閉じられている。そして弟の清六が遺品のトランクを開け、大量の草稿と黒革の手帳を見つけた。詩人のがそれを世に押し出し、1934年の発表を経て「雨ニモマケズ」は国民的な詩になっていく。文圃堂版・羽田書店版・筑摩書房版と全集が重ねられ、教科書への採録が続いた。生前ほぼ無名だった人の、完全な没後発掘ぼつごはっくつである。本人がまったく予期しなかった形の神格化が、そこから始まった。

賢治は答えを見なかった。冷害は続き、協会は挫折し、本は売れず、体は敗れた。それでも彼の問いは、手帳とトランクのなかで生き延びた。世界がぜんたいの幸福と、あなた一人の幸福。賢治が抱えたまま死んだこの問いは、いまのあなたには、どう見えるだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)で質屋の長男として誕生。明治三陸津波・陸羽地震の年
  2. 妹トシ誕生、生涯最も深く結ばれた妹
  3. 県立盛岡中学校(5年制)入学
  4. 盛岡高等農林学校で土壌学・農芸化学を学ぶ(首席卒業)
  5. 研究科で土壌肥料学を続ける、家業継承をめぐり父と衝突
  6. 国柱会への入会で1月上京、8月帰花、12月稗貫農学校教員に着任
  7. 11月、妹トシが結核で死去、『永訣の朝』など三篇を詠む
  8. 詩集『春と修羅』(自費1000部)、童話集『注文の多い料理店』(800部)を刊行
  9. 農学校を辞職、下根子桜で独居、8月に羅須地人協会を開設
  10. 8月、過労と結核で病臥、12月に東京聖路加病院で危篤、協会の活動は終息
  11. 東北大飢饉。東北砕石工場の嘱託として石灰肥料の設計・販売
  12. 9月、上京中に再発、手帳に「雨ニモマケズ」を書き付ける(昭和6年11月3日付)
  13. 9月20日夕、最後の肥料相談。9月21日、急性肺炎で死去。享年37
  14. 弟清六が手帳を発見、草野心平・高村光太郎らが遺稿整理。『雨ニモマケズ』が発表され、徐々に国民的詩人として定着

残した思想の輪郭

  • 農と法華経と童話 ― 岩手の冷害と貧困、法華経の実践、童話世界が一つに繋がった特異な生
  • 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 ― 「農民芸術概論綱要」の核
  • の実践 ― 教師を辞して独居・自耕・農民指導に踏み込んだ30代の挑戦と挫折
  • 』『銀河鉄道の夜』 ― と童話の独特の文体、妹トシへの挽歌を底に持つ
  • 「雨ニモマケズ」 ― 死の2年前、革手帳に書き付けられた自戒、死後発見で世に出た
  • 父政次郎との信仰対立 ― 浄土真宗の父と法華経の息子、親子の宗派対立が生涯の主題
  • 没後発掘による神格化 ― 生前ほぼ無名、弟清六と草野心平らの遺稿整理を経て国民的詩人へ
昭和8年(1933年)9月21日、岩手県花巻町の実家で急性肺炎(肺結核の末期)により死去。37歳。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

宮沢賢治が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 宮沢賢治記念館記念館

    花巻, 日本

    花巻市が運営する賢治の生涯と作品の総合記念館、胡四王山麓

  • 宮沢賢治童話村記念館

    花巻, 日本

    賢治の童話世界を体験できる体験型施設、記念館に隣接

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