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エピクテトス

Epictetus·50頃–135頃·古代ローマ(ギリシア出身)·

脚をねじられながら、 なぜ静かでいられたのか?

奴隷から解放されニコポリスで教えた、ストア派実践倫理の師

  • 提要
  • 語録
  • 奴隷出身
  • 自由意志
皇帝が替わるたび血が流れ、人が市場で売り買いされていた時代。 — ひらく

時代の空気

紀元1世紀後半から2世紀初頭のローマ帝国は、ネロ自殺(68年)、四皇帝の年(69年)、フラウィウス朝の安定を経てドミティアヌスの粛清に至る政治の不安定が続いた。奴隷売買が日常で、属州ギリシアの諸都市はアウグストゥス建設のニコポリスを含めローマの平和の下で経済活動が活発化、地中海各地から学徒を集めていた。皇帝ドミティアヌスは89/92/95年頃に元老院批判の知識人と哲学者をローマから追放し、エピクテトスもニコポリスへ移って学校を開いた。

01「折れますよ」

ローマの、ある屋敷でのことだった。主人が奴隷の脚をつかみ、無慈悲にねじり上げていた。奴隷は悲鳴を上げなかった。ただ冷静に、こう予告したと伝えられる。「折れますよ」。

二世紀の著述家ケルソスが伝える話である。細かな事情は、もう確かめられない。傷は主人の拷問ごうもんによるとも、病気によるとも言われる。ただ、この奴隷が生涯、足を引きずって歩いたことは広く伝わっている。

脚をねじられながら、なぜ人は静かでいられるのか。奴隷の名はエピクテトス。のちに皇帝さえ、その教えを読むことになる男である。答えを探すために、時をこの子が生まれた日まで巻き戻したい。

02名前のない子ども

50年頃、小アジアの町ヒエラポリスに、ひとりの男の子が生まれた。現在のトルコ、パムッカレの近くにあった町である。子どもの身分は、生まれたときから奴隷だった。

名はエピクテトス。ギリシア語で「所有された者」を意味する、ただの普通の言葉である。本当の名前は伝わらない。奴隷は主人から呼び名を与えられ、生涯その名で呼ばれた。

幼いうちに、彼はローマへ売られた。買い主は。皇帝ネロの秘書を務める、解放奴隷(自由を与えられた元奴隷)の実力者だった。この主人はのちに、ネロの死を手伝ったとされ、ドミティアヌス帝に処刑される人物である。

エピクテトスは成人するまで、この屋敷で育った。そして主人はやがて、この少年の知性に気づくことになる。

03奴隷のまま、哲学を学ぶ

主人は彼の知性を認めた。そして高名なストア派の哲学者、の講義に通わせた。ストア派とは、心の鍛え方を説く、ギリシア生まれの哲学の一派である。ルフスは口先の議論より実行を重んじ、金持ちの弟子にも労働と質素を説く師だった。

「力の及ぶものと、及ばぬもの」。ストア派の説くこの区別が、奴隷のままの少年に、ゆっくりと染み込んでいった。

65年から68年頃、エピクテトスは解放された。正確な時期は分からないが、まだ十代だったとみられる。自由の身になった彼は、ローマで哲学を教え始めた。ただし解放奴隷は、法の上では自由でも、生まれながらの貴族と同じ場所には立てない。評判や官職や財産を「我らのものではない」と言い切る彼の鋭さは、この中間の身分の感覚と無縁ではない。

暮らしは質素だった。鉄のランプの明かりで本を読み、ドアに鍵もかけなかったと弟子が伝える。ある夜、そのランプが盗まれた。彼はこう言ったという。「盗人は自分がランプの値段以上の代価を払った。嘘つきになったのだから」。以後は安い陶器のランプで済ませた。

ローマでの授業は、学校というより人生相談に近かった。若い役人や軍人、豊かな市民が集まった。皇帝が替わるたび、生き方まで変えるべきなのか。政治の嵐におびえる人々に、奴隷出身の哲学者は答え続けた。だが次に彼の暮らしを変えたのは、ほかならぬ皇帝の命令だった。

04追放、勝利の町へ

89年から95年の間のある年(記録により年は違う)、皇帝ドミティアヌスは哲学者たちをローマから追放した。元老院という議会で、皇帝を批判する勢力を潰すためと言われる。エピクテトスはギリシア北西部の海辺の町、ニコポリスへ移った。

ニコポリスは「勝利の町」を意味する。初代皇帝アウグストゥスが、アクティウムの海戦(紀元前31年)の勝利を記念して建てた町である。

彼はここで私塾しじゅくを開いた。寝台の代わりにわら敷き、机の代わりに石。飾りのない学校に、それでも帝国の各地から弟子が集まった。彼は残りの人生、四十年近くをこの町で過ごすことになる。

弟子の中に、という若者がいた。のちに皇帝の友となり、名文家クセノフォンになぞらえられる歴史家である。エピクテトスは「書くのは恥ずかしい、話すだけで十分」と考え、自分の本を一冊も残さなかった。だからアッリアノスは、師の講義を速記そっきで書き取った。

師の死後、その記録は『語録』全八巻にまとめられた(現存するのは四巻)。さらに要点を抜き出した小さな本、『提要(エンケイリディオン)』が編まれた。「エンケイリディオン」とは「手に握るもの」、つまり手引書てびきしょを意味する。

授業は、優しい話だけの場ではなかった。『語録』の中で彼は、しばしば弟子を叱っている。論理を軽んじる者。話し方の技だけを求める者。哲学者らしい見た目に酔う者。教室は慰めの場である前に、心をきたえる訓練の場だった。では、その手のひらサイズの手引書の最初の一ページには、何が書かれていたのか。

05手に握る五十三章

は53の短い章からなる小さな本である。その第1章に、すべての土台となる区別が置かれている。

存在するもののうち、あるものは我々の力の及ぶものであり、あるものは及ばぬものである。考えと衝動と欲望と嫌悪、要するに我々自身の活動は、力の及ぶもの。肉体・財産・評判・官職、要するに我々自身の活動でないものは、力の及ばぬもの。

『提要』第1章。全53章の出発点として、最初に置かれた区別

力の及ばぬものを「自分のもの」と思い込むと、人は奴隷になる。力の及ぶものを正しく使えば、誰の支配も受けない。残りの52章は、この区別を暮らしの全部に当てはめていく稽古けいこである。友人との関係、死、病気、貧しさ、そして皇帝への恐怖まで。

これは「諦めろ」という教えではない。出来事に負けて黙れ、という意味でもない。どんな出来事が来ても、それをどう受け取り、どう動くかを選ぶ力だけは手放すな。そう説くのである。

人間を乱すのは事柄ではない、事柄についての考えである

『提要』第5章。ニコポリスの教えの核心として、二千年後の心理学にまで引かれる一句

つらさは、出来事そのものからは来ない。出来事をどう受け取るかから来る。だとすれば、受け取り方を選ぶ余地だけは、いつでも人間の側に残っている。

ここで、冒頭の場面に戻りたい。脚をねじり上げられていた、あの奴隷の静けさである。足を引きずること(跛行はこう)について、『提要』第9章で彼自身がこう説いた。「跛行は脚の妨げであって意志()の妨げではない」。脚は、力の及ばぬもの。その脚をどう受け取るかは、力の及ぶもの。彼はこの区別を、自分の肉体で試し続けたのだった。

だがこの教えは、ニコポリスの小さな教室では終わらなかった。

06自由の逆説、そして後世へ

ストア派の教室は慰めの場である前に訓練の場であり、表象を吟味し、同意を急がず、欲望と嫌悪の向きを毎日改める場所だった。その訓練が目指すエピクテトス最大の主題は「自由(eleutheria)」である。しかし彼にとって自由は社会的身分ではない。奴隷でも自由でありうるし、皇帝でも奴隷でありうる。自由とは「力の及ぶものだけを欲する」ことである。

皇帝に殺されても、魂は殺されない。恋人に去られても、愛そのものは奪われない。他者に賞賛しょうさんされても、賞賛は他者のもので自分のものではない。この二重の拒絶――恐怖の対象を恐れず、欲望の対象を欲しない――によって、奴隷の身体でも皇帝の玉座ぎょくざでも、同じ自由が可能になる。

彼はしばしば役者の比喩を用いる。劇の長短や配役は自分で決められない。乞食、病人、官吏、私人、どの役を与えられても、よく演じることはできる。ここでの忍耐は、屈服ではなく、役と自己を取り違えない技法である。プロハイレシス、すなわち選択する意志だけが、人間のとりでとして残る。

この区別は、諦めの勧めではない。彼が求めるのは、外的な出来事を放置することではなく、判断と選択の座を取り戻すことである。病気、貧困、追放、死は「素材」であり、善悪はその素材をどう用いるかにかかる。だから彼の倫理には、自由、忍耐、神の恩恵という三本の柱がある。宇宙の秩序を神的なものとして受け、自分に配られた役をよく演じ、なお意志だけは売り渡さない。

第5章の「人を乱すのは事柄ではない、事柄についての考えである」は、20世紀のアーロン・ベックとアルバート・エリスのの遠い祖として引用される。感情は出来事から直接出てこず、出来事をどう表象(phantasia)するかを介して生じるという主張は、奴隷出身の哲学者の生活知恵として始まり、現代の臨床心理学まで届いた。

ドミティアヌスに追放された経験、拷問または病で足を不自由にした(と伝わる)経験、養子以外に家族を持たず独身を通した生涯。それらすべてが、抽象的な倫理ではなく身体で語られた哲学の根拠だった。

エピクテトスの死後、『語録』と『提要』は急速に読み継がれた。とりわけ皇帝マルクス・アウレリウス(121-180)は第1巻で、恩師ルスティクスから「エピクテトスの覚え書き」を借りて読んだと感謝を捧げている。奴隷出身の哲学者の手引書が、二代後に帝国の頂点で読まれた。このことは「ストア派とは身分に依存しない」というエピクテトス自身の主張を、歴史が実証した形になった。

皇帝ハドリアヌスが彼を訪ね、尊敬したという伝承も残る。細部は確かめにくいが、アッリアノスがハドリアヌス期の高官であったことを考えれば、ニコポリスの小さな教室の声が宮廷の近くまで届いていたことは疑いにくい。

中世ではキリスト教化された形で『提要』が修道院で写本しゃほんされ、修道士の倫理書としても読まれた。神や摂理を語る箇所は、異教のストア派とキリスト教修養の接点を作った。近世ではのユストゥス・リプシウスが再紹介し、パスカル、ショーペンハウアー、トルストイ、(捕虜の元米海軍中将)まで、救命の書として読み継がれている。

皇帝の玉座と奴隷の鎖のあいだで、同じ自由が語られた。では二千年後のあなたの一日の中で、力の及ぶものはどれで、及ばぬものはどれだろうか。

07主要な出来事と著作

  1. 小アジア・ヒエラポリスに奴隷として誕生
  2. ローマのエパフロディトゥス邸で育つ。ムソニウス・ルフスに師事
  3. 解放される。ローマで哲学を教え始める
  4. ドミティアヌス帝の哲学者追放令でニコポリスへ移住(時期は諸説)
  5. アッリアノスが弟子となり、講義を速記で記録
  6. 皇帝ハドリアヌスの訪問を受けたと伝わる
  7. ニコポリスで死去。享年85前後
  8. アウレリウスが『自省録』第1巻でエピクテトスへの感謝を記す

残した思想の輪郭

  • 二つの区別 ― 力の及ぶものと及ばぬものを分け、前者にのみ関心を集中する
  • 心の平静(ataraxia) ― 外的事柄への判断を留保することで得られる内面の自由
  • プロハイレシス ― 「選択する意志」こそが人間の本質であり、何人にも奪われない
  • 身分を超えた自由 ― 奴隷でも自由でありうるし、皇帝でも奴隷でありうる
  • 認知的倫理 ― 出来事と反応の間に「表象(phantasia)」を置き、そこに自由の余地を見る
135年頃、ニコポリスで老齢のため静かに死去。享年85歳前後と伝わる。生涯独身だったが晩年に友人の子を養子にした。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

エピクテトスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

エピクテトスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 古代ニコポリス遺跡ゆかり

    プレヴェザ, ギリシャ

    紀元93年頃、皇帝ドミティアヌスの哲学者追放令を受けここへ移り、135年までストア派の学校を営んだ

さらに辿るならExternal References

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