墨子
知らない国の人を、 家族と同じように愛せるだろうか?
「兼愛」と「非攻」を掲げ、儒家の差等愛に対抗した墨家の祖
- 兼愛
- 非攻
- 節葬
- 尚賢
王たちは城を奪い合い、小さな国は明日をも知れない。戦の止め方を、まだだれも持っていなかった。 — ひらく
時代の空気
春秋末から戦国初期、周の宗法秩序が解け、諸侯が独立した王として相争う時代に入りつつあった。魯・宋など中原の小国は晋・楚・斉の大国の侵攻を恐れ、城壁と兵器の進化が止まらなかった。儒家は周礼の復興と厚葬・礼楽を説き、貴族層に広まる一方で、繁雑な儀礼と葬祭の費用は民を圧迫した。墨子はBC5世紀後半、魯または宋の地から出て、楚・宋など諸国を渡り歩き、城を攻めようとする国に乗り込んで公輸盤らと守城の技を競った。
01十日十夜、歩いてきた男
紀元前5世紀、戦乱の中国。南の大国、楚(そ)が、宋(そう)という小さな国を攻めようとしていた。それを聞いて、十日十夜歩き続け、楚の都にたどり着いた男がいる。名は墨子。攻める楚の人ではない。魯を発ってきたと『墨子』公輸篇は記す。
墨子はまず楚の王に問うた。「宋に何の罪があるのか」。それでも王は、攻める気をゆるめない。そこで墨子は、その場で戦争をやってみせた。帯を解いて、城壁に見立てる。木片を、城を守る道具に見立てる。
相手は公輸盤。雲梯という攻城ばしごをはじめ、攻め方を考えた技術者だ。雲梯、水攻め、穴攻め。は九たび攻めた。墨子は九たび、すべて退けた。
追いつめられた公輸盤は言った。「私はあなたを殺す手段を知っている」。墨子は答える。私の弟子三百人が、すでに宋の城壁で守りについている、と。楚王は宋への攻撃をあきらめた。『墨子』公輸篇が伝える場面である。
墨子はなぜ、だれに頼まれたわけでもないのに、命を懸けてこの戦争を止めに来たのか。答えは、彼が歩いてきた道のりの中にある。時を、彼の青年時代まで巻き戻そう。
02工人か、士か ― 謎の出自
墨子は紀元前5世紀、魯(ろ)または宋に生まれた。姓は墨、名は翟。「墨子」は「墨先生」という尊敬の呼び名だ。生まれ育ちは、はっきりしない。魯の貴族だったという説、宋の役人だったという説がある。身分の低い工人(職人)だったという説まである。「墨」という姓は、刑罰の入れ墨を指すのではないかともいわれる。低い身分の出をほのめかすが、確かな証拠はない。
若いころ、墨子は(儒家の学問)を学んだと『淮南子』という後代の書物は伝える。だが彼は、その教えになじめなかった。細かすぎる礼のきまり。厚葬久喪と呼ばれる、手厚い葬式と長い喪。それらは墨子の目に、人々の力と財産のむだづかいと映った。彼は儒家をはなれ、自分の学団を作りはじめる。
宋は大国にはさまれた小さな国で、いつも攻められるおそれの中にあった。墨子を宋に近い人と見るなら、その思想は強い国の都で練られた王の理屈ではない。攻めこまれる側の城壁の下で生まれた、守るための考え方である。彼の文章には、木材、縄、車軸、城壁、食糧の量をはかる手の感触が残っている。
出自が工人か士かは、いまも確定できない。ただ一つ、動かないことがある。墨子は職人や兵や弁論の士を束ね、机の上だけではない、実際に動く集団を作った。では、その集団は何のために動いたのか。出発点にあったのは、たった一つの考えだった。
03兼愛 ― わけへだてなく愛せ
墨子の思想の核心は兼愛である。とは、わけへだてなく人を愛すること。世の中が乱れるのはなぜか。墨子の答えははっきりしている。人が「自分の側」と「それ以外」を分けて愛するからだ。
自分の国だけを愛するから、よその国を攻める。自分の家だけを愛するから、よその家から盗む。それなら、直す方法は一つしかない。自分を愛するように、他人を愛する。自分の国を愛するように、よその国を愛する。墨子はこれを、兼ねて相愛し、たがいに利し合うこと(兼相愛・交相利)と呼んだ。
儒家はこの考えを激しく攻撃した。孟子は「墨氏は兼愛す、父なきなり」(滕文公下)とまで言った。父への特別な愛さえ捨てさせる教えだ、という批判である。だが墨子が言ったのは「父を他人あつかいせよ」ではない。愛する相手に、身分や遠い近いで差をつけるな、ということだった。「天は兼ねて愛し、兼ねて利す」(法儀篇)。天が人をえこひいきしないように、人もえこひいきするな、と。
天下の人皆な相愛し、強は弱を執らず、衆は寡を劫かさず、富は貧を侮らず、貴は賤を敖らず
強い者が、弱い者をおさえつけない。多数が、少数をおびやかさない。だが、こう説くだけで戦争が止まるだろうか。墨子は、止まらないことを知っていた。
04非攻 ― 戦争を止めに行く
兼愛から、当然の結論が導かれる。非攻、すなわち攻める戦争への反対である。墨子の理屈はこうだ。一人を殺せば、殺人と呼ばれる。十人を殺せば、大罪人だ。ところが国家が万単位の人を殺す戦争になると、だれもがそれを「義」とたたえる。おかしいではないか。『上』で墨子は言い切る ―「大国を攻めるは、義にあらず」。
しかも墨子は、言葉だけの人ではなかった。彼の学団は、実際に戦争を止めに行く集団だった。どこかの国が侵攻を計画すれば、墨家の一団が攻められる側の国へ駆けつける。そして、城を守る技術を提供した。梯子を焼く。穴をふさぐ。水を抜く。兵を配置する。守り切るための知識を、彼らは持っていた。
冒頭の楚での一幕も、この活動の一つである。だが、命がけで他国の城を守る集団は、なぜばらばらにならなかったのか。その結束の秘密は、彼らの「暮らし方」そのものにあった。
05節用 ― 民の暮らしから数える
の目は、いつも名もない民衆に向いていた。君主のぜいたく。手厚すぎる葬式。豪華な音楽と祭り。墨子はそれらを、民の労力と財産を食いつぶすむだとして数え上げた。節用(むだづかいをしない)、節葬(葬式を簡素にする)、非楽(ぜいたくな音楽をやめる)。「用を節すれば国富む」と彼は説いた。
儒家が礼と音楽を、人を人らしくする文化と見たのに対し、墨子は民を飢えさせるむだと見た。これはただの学説の違いではない。だれのための政治か、という根本の対立だった。
政治では尚賢を説いた。家がらによらず、有能な者を取り立てよ、という主張である。家がらがすべてを決める世襲の時代への、鋭い批判だった。尚同は、村から国、天子、そして天へと、正しさの基準をそろえていく政治論である。
さらに墨子は、天志(天の意志)を説いた。天には意志があり、わけへだてなく愛する者に賞を与え、そうでない者を罰する。鬼神(死者の霊や神々)も実在して悪を罰する、と明鬼で論じた。その一方で、では運命論を退けた。貧しさも国の乱れも「運命だ」で片づければ、君主は政治を改めず、民は努力をやめてしまうからだ。天を信じ、同時に「証拠を示せ」と迫る。この二つを併せ持つ集団の厳しさは、その掟にもっともよくあらわれている。
06鉅子の結社 ― 命がけの規律
墨家は、ただの学派ではなかった。鉅子と呼ばれる最高指導者が率いる、軍隊なみの規律を持つ結社だった。墨者(墨家の一員)は「赴湯蹈火、死して旋踵せず」(湯に赴き火を踏んで死しても踵を返さず)と誓って任務についた。
『呂氏春秋』上徳篇は、墨子の死後の、孟勝の話を伝える。は陽城君という人物の命で、城を守ることになった。城が落ちると、孟勝は「墨者の義」のために、門人百八十三人とともに自殺した。弟子の一人が止めた。鉅子が死ねば、墨家そのものが終わってしまう、と。孟勝は後継者を指名したうえで、それでも死を選んだ。組織への絶対の忠誠。それが墨家の強さであり、同時に、その奇妙さでもあった。
墨者は諸国に仕えながら、仕え先よりも墨家の義を上に置いた。命令系統、守城の技術、情報の伝達、質素な暮らし。それらを共有する彼らは、弁論の士であると同時に、国境をこえて動く技術者集団だった。小さな国の城を守るには、弁舌だけでは足りないからだ。
この鉄の結束が、あの楚の都での一幕を支えていた。もう一度、あの場面に戻ろう。
07ふたたび、楚の都で
「私はあなたを殺す手段を知っている」と公輸盤は言った。墨子さえ消せば、宋を守る者はいなくなる ― そう考えたのだろう。だが墨子には、すでに答えがあった。弟子三百人が、宋の城壁に立っている。私一人を殺しても、宋は落ちない、と。
墨子はなぜ、十日十夜歩いたのか。もう、答えは見えているはずだ。宋の人々もまた、わけへだてなく愛すべき人々だから(兼愛)。大国が小国を攻めるのは義ではないから(非攻)。そして、王の欲望は説教だけでは止まらないから。「攻めても落とせない」という現実だけが、戦争を止める。墨子の反戦は、祈りではなく、技術だった。
墨子はBC390年頃に没したと伝わる(生没年には諸説ある)。彼の結社はやがて歴史から姿を消す。だが、彼が生涯を懸けた言葉は残った。
天下の人皆な相愛し、強は弱を執らず、衆は寡を劫かさず、富は貧を侮らず、貴は賤を敖らず。
強い者が弱い者をおさえつけない世界は、二千数百年たった今も、実現していない。あなたなら、どこまでの人を「守るべき身内」と呼ぶだろうか。
08墨経と消えた学派 ― 思想史のなかの墨子
兼愛は感情の命令というより、害を減らすための制度原理であった。『兼愛中』は、諸侯が互いの国を自国のように見、家長が他家を自家のように見れば、攻伐・簒奪・盗賊は起こらない、と論を進める。ここでいう「愛」は、近代語の恋愛や内面の親密さではない。相手を利し、殺さず、奪わず、飢えさせないという外に現れる行為である。墨子が繰り返す「交相利」は、情の美名ではなく、互いに生存条件を壊さないという戦国の最低線だった。
公輸篇の逸話は伝承性を含む話ではあるが、そこにある反戦は、敵の良心だけに訴えるものではない。攻めても落とせないという技術的抑止によって、はじめて王の欲望を止めるのである。
非楽は音そのものへの鈍感さではない。墨子は、鐘鼓を造る銅、舞人を養う米、演奏のために徴発される労働を数える。戦乱と飢饉の時代に、支配者の快楽が民の衣食を奪うなら、それはよい政治ではない。節葬も同じで、死者への哀惜を否定するのでなく、生者を三年の喪で働けなくし、家を破産させる礼制を退ける。儒家から見れば粗野であり、墨家から見れば切実であった。ここに戦国の思想の階級差がある。
は君主・天子・天の階梯で意見を統一する政治論で、のちの法家に近いの萌芽とも読める。と明鬼の宗教的枠組みは、儒家の「天」を非人格的法則とする傾向と対立する。墨家は、民衆の倫理を支える装置として人格神的な天と鬼を積極的に擁護した。他方、墨子は『非命』篇で、古聖王の事跡、民衆の耳目、国家に及ぶ実利という三つの基準、いわゆる三表法によって言説を測ろうとした。天志や明鬼を説く一方で、根拠のない宿命論を嫌う。宗教的でありながら経験と効用を問う。この二重性が、墨家を単なる信仰集団にも、単なる功利主義にも収まらないものにしている。
結束の原理も儒墨で対照的である。儒家が師弟の礼と古典学習を中心に結ばれたのに対し、墨家は任務と紀律で結ばれた。梯子を焼き、穴をふさぎ、水を抜き、兵を配置する知識がいる。墨子の思想が硬いのは、そうした現場に耐えるためでもあった。
『墨子』には後期墨家が著した『墨経』(経上・経下・経説上・経説下、および大取・小取)が含まれる。ここには光学(小孔写像、影の形成)、力学(槓桿の原理)、幾何学の定義、そして独自の論理学(名家と呼応する名実論、類・故・理の推論)が記述されている。同時代の中国の書で、これほど技術知と意味論・認識論・類推的論証を体系的に記したものは他に類を見ない。『経下』『説経下』には、光が直進すること、影が物体と光源の位置関係で変わること、小さな孔を通る像が上下左右反転することを説明する断片がある。これは世界でも早い時期の幾何光学の記録とされる。力学では、重さと距離の釣り合い、車輪や滑車に近い装置の理解が見える。これらは抽象理論だけでなく、攻城・守城、測量、器械製作に結びついた知であった。後期墨家は「名」と「実」の対応、同と異、原因にあたる「故」を細かく論じ、戦う技術者の集団から論理を扱う学派へと展開した。
しかし墨家集団は戦国末から秦漢にかけて急速に衰退した。秦の統一で守城専門集団の政治的需要が失われ、侵略戦争批判自体も統一帝国の下では説得力を保ちにくくなった。前漢武帝期、前136年以降の儒家優遇(独尊儒術)のなかで墨家は周縁化し、後期墨家の論理・科学篇も本文破損を受けて読み手を失った。思想史の「墨家の消失」は、中国思想史最大の謎の一つだが、近代に至り『墨子』は兼愛と論理学で再評価され、孫文も「墨子こそ最初の兼愛博愛の哲学者」と称揚した。
清代考証学が本文を校訂し、20世紀初めには梁啓超や胡適が墨子を近代的合理精神、平等主義、実験的知性の先駆として読み直した。もちろん、墨子をそのまま近代人に仕立てることはできない。彼は天志と明鬼を信じ、紀律ある結社を作り、個人の自由より共同体の義を重んじた。それでも、強国の攻撃を義と呼ばず、身分によらず賢を尚び、言葉を三表で試そうとした姿勢は、長い沈黙の後にも読み返されるだけの硬さを保っている。
09主要な出来事と著作
- 魯または宋に生まれる(出自・生年は諸説あり、BC480〜BC468頃)
- 儒家に学ぶも、礼の繁雑と厚葬久喪に反発して離脱
- 尚賢・尚同・兼愛・非攻・節用・節葬・天志・明鬼・非楽・非命の十論を掲げ、独自の実践団と鉅子制を組織して守城術に習熟
- 楚王に諫言し公輸盤と九度の模擬攻防を交わして攻宋を断念させる(『墨子』公輸篇)
- 没と伝わる(生没年には諸説あり)
- 後期墨家が『墨経』(経上下・経説上下、および大取・小取)を編纂、光学・力学・名実論を体系化
- 統一で守城の需要が失われ、武帝期の儒家優遇(前136年〜)のもと墨家は周縁化し文献から姿を消す
- 清代考証学・近代中国で再評価、梁啓超・胡適・孫文らが兼愛と実証精神の先駆者として読み直す
残した思想の輪郭(十論と周辺)
- 兼愛 ― 自他・自国他国を区別せず愛する普遍主義、儒家の差等愛への対抗
- 非攻 ― 戦争は大規模な殺人、侵略戦争を全面否定し守城の実践で停める
- ・節葬・非楽 ― 厚葬や音楽の浪費を退け、民衆経済を守る功利主義
- ・尚同 ― 世襲を退け賢者を登用、是非の基準を上に統一する政治論
- 天志・明鬼 ― 兼愛を命じる意志ある天と、悪を罰する鬼神の実在
- 非命 ― 運命論を退け、努力と政治が貧富治乱を分けるとする積極主義(非命篇にの定式が置かれる)
- 墨経の科学 ― 光学・力学・幾何学の定義、名実論と類・故・理の推論を含む、中国古代の異色の技術知
- 鉅子の結社 ― 厳格な規律の実践団として効果的な反戦を成したが、統一帝国期に活動の場を失い消失
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墨子の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門墨子
墨子 / 訳: 森三樹三郎 / ちくま学芸文庫
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