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マルクス

Karl Marx·1818–1883·ドイツ·

働いても報われないのは、 自分のせいなのか?

資本主義の核心を暴き、労働者解放を思想と運動に変えた革命家

  • 資本論
  • 疎外
  • 史的唯物論
王の検閲が言葉を縛り、工場が人を飲み込む。革命の足音が近づく時代。 — ひらく

時代の空気

1818年プロイセン西端トリーア生まれ、ナポレオン戦争後のウィーン体制下で青年期を送った世代。プロイセン法はユダヤ人の弁護士職を禁じ、父ハインリヒは改宗してこの制限をかわしていた。ベルリン大学ではヘーゲル哲学が支配し、青年ヘーゲル派の急進的批判が広がる一方で、新聞は厳しい検閲下に置かれ、1843年に『ライン新聞』も廃刊された。パリ・ブリュッセル・ロンドンを転々とした亡命生活は、1848年のヨーロッパ革命とその挫折、英国産業革命下のマンチェスター工場と都市貧困、1864年の第一インターナショナル結成という労働運動の国際化と並行していた。

01十一人の葬儀

1883年3月14日の昼過ぎ。ロンドンの家の書斎で、一人の老人が肘掛けひじかけ椅子に座ったまま息を引き取った。三日後、ロンドン北部のハイゲイト墓地で葬儀が営まれた。集まったのは、わずか11人だった。

弔辞ちょうじを読んだのは、生涯の友フリードリヒ・エンゲルスである。彼は「ダーウィンが有機的自然の法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見した」と語った。だが、その言葉を聞く者は11人しかいなかった。

カール・マルクス。のちに19世紀で最も影響力のある政治文書と呼ばれる小冊子を書いた男である。その最期は、これほど静かだった。なぜ、世界を変えようとした男を、11人だけが見送ったのか。

答えを探すために、時を65年前に戻そう。

02トリーアの少年

1818年5月5日、マルクスはプロイセン西端の古都トリーア(Trier)に生まれた。ライン川沿いのこの街には、ローマ帝国の遺跡が残る。丘はブドウ畑に覆われていた。父ハインリヒは、地域で名の知れた法律家だった。

一家は代々ユダヤ教の家系である。だが当時のプロイセンの法律は、ユダヤ人が弁護士になることを禁じていた。そのため父は、カールが生まれる前にキリスト教プロテスタントへ改宗していた。カール自身を含む子どもたちの受洗じゅせん(洗礼を受けること)は、少し遅れて1824年である。

父は啓蒙けいもう主義とドイツの哲学者カントを敬愛する、理性の人だった。息子の教育にも熱心だった。幼いカールの暮らしは、比較的裕福で安定していた。隣人の貴族ヴェストファーレン男爵の家には、娘のジェニーがいた。幼い頃からの顔なじみだった二人は、やがて恋に落ちる。

だが身分の違うこの恋が実るまでの道は、長く平坦ではなかった。そして少年はまもなく、故郷を離れる。

03ベルリンの夜、青年ヘーゲル派

1835年、17歳のマルクスはボン大学に入学した。翌年、ベルリン大学に移る。最初は法律を学んだが、すぐに哲学の磁力に引き寄せられた。当時のベルリンでは、哲学者ヘーゲルの思想が圧倒的な力を持っていた。

マルクスは「青年ヘーゲル派()」と呼ばれる若手の集まりに加わった。らの仲間と、深夜まで議論を重ねた。ヘーゲルの弁証法べんしょうほう(物事が対立を通して発展するという考え方)は受け継ぐ。だが、その保守的な結論には従わない。それが彼らの立場だった。

ヘーゲルは「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的だ」と説いた。青年マルクスはこの命題をひっくり返した。現実のほうが理屈に合わないなら、現実を変えるのが哲学の仕事ではないか。1841年、彼は「エピクロスとデモクリトスの自然哲学の相違」で博士号を取得した。

しかし大学に残る道は、バウアーへの弾圧だんあつで閉ざされる。教壇を失った哲学は、どこへ向かうのか。

0424歳の編集長

1842年、マルクスは急進的な新聞『ライン新聞』(Rheinische Zeitung)の編集長になった。24歳だった。彼は木材の窃盗をめぐる法律を論じた。モーゼル川のブドウ農家の苦しい暮らしも取り上げた。そしてプロイセン当局の検閲(政府が言論を事前に取り締まること)を、繰り返し告発した。

記事が鋭くなるほど、当局の目は厳しくなった。1843年3月、新聞は政府の命令で廃刊になる。その直前、マルクスはと結婚した。7年間の婚約の末だった。貴族出身のジェニーは知的な同伴者として、以後、迫害と貧困の生涯を最後まで共にする。

二人はすぐにプロイセンを去り、パリへ向かった。検閲に筆を折られた編集者は、国境の向こうで問いを研ぎ澄ませていく。世界を、どうすれば変えられるのか。

05パリ、エンゲルスとの再会

1843年秋、マルクスはパリに移り住んだ。この都市で彼は、フランスの社会主義運動と、労働者たちの現実に初めて触れた。そして猛烈に書いた。『ユダヤ人問題によせて』(1843)では、市民としての解放だけでは足りないことを論じた。

』(1844)の軸は、疎外そがいという概念である。働く人が、自分の労働から切り離される。作った物からも、他人からも、そして類的本質るいてきほんしつ(人間というしゅに共通する本質)からも切り離される。資本主義のもとで起きるこの現象の分析は、マルクス思想の根幹となる。

1844年8月、パリのカフェで、マルクスはフリードリヒ・エンゲルスと再会した。以前に短い文通をしたことのある相手だった。今回の10日間の対話は、生涯の同盟の始まりになった。エンゲルスはマンチェスターの工場を見て、労働者階級の生々しい現実を知っていた。その体験とマルクスの哲学・経済学的分析は、完璧に噛み合った。

のちに『』として知られる覚え書きには、こう記されている。

哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変えることである。

『フォイエルバッハ・テーゼ』第11 ― 亡命中の1845年に書き留められた覚え書きの、最後の一行

翌1845年、マルクスはパリを追放される。次の目的地は、ブリュッセルだった。

06一冊の小冊子と革命の年

ブリュッセルに移ったマルクスとエンゲルスは、共同作業を加速させた。『』(1845-46)で、二人は史的唯物論してきゆいぶつろんの骨格を作り上げる。歴史を動かすのは、精神や思想ではない。物質的な生産関係 ― 誰が何を作り、誰がそれを所有するか、である。経済という土台が、政治・法・文化という上部構造じょうぶこうぞうを規定する。

1848年、ヨーロッパを革命の嵐が席巻せっけんする。その直前、二人は『』を書き上げていた。を骨格に、階級闘争かいきゅうとうそう(持つ者と持たざる者の争い)の必然性と、労働者の団結を宣言した文書である。その書き出しは、こう始まる。

一つの幽霊がヨーロッパを徘徊している ― 共産主義という幽霊が

『共産党宣言』(1848)冒頭 ― 各国政府が共産主義を恐れ始めた時代への、宣戦布告のような第一句

二十数ページの小冊子は、当初ほとんど読まれなかった。だが革命の波が収まると、19世紀で最も影響力のある政治文書になっていく。革命そのものは失敗に終わった。マルクスはまた国を追われる。次の街で過ごす34年が、彼に残された時間のすべてだった。

07ロンドンの霧と貧困

1849年夏、マルクス一家はロンドンに落ち着いた。だが「落ち着いた」という言葉は、実態とは程遠い。ソーホーのディーン・ストリートに借りた狭いアパートは、常に生活費に窮していた。家具を差し押さえられた日も、食料が尽きた日も少なくなかった。

七人の子のうち、成人まで生き延びたのは三人だけだった。幼い子どもたちが、相次いで死んだ。エンゲルスが仕送りを続けなければ、一家は路頭に迷っていた。

それでもマルクスは書いた。毎日、大英博物館の図書館に通った。経済学の資料を読みあさり、傍線ぼうせんと注釈で埋め尽くされたノートが積み上がった。ジェニーは原稿の清書を引き受けた。長女エレノアは父のメモを整理した。ロンドンの霧と貧困の中で、資本主義の解剖学かいぼうがくは少しずつ形を成していく。

その本が世に出るまで、ロンドンに来てから18年かかった。

08『資本論』第1巻 1867

1867年9月14日、『』第1巻がハンブルクで刊行された。マルクス49歳。構想から20年、ロンドン移住から18年の到達だった。

『資本論』の核心は剰余価値じょうよかちの概念にある。労働者は自分の労働力を商品として売るが、賃金として返ってくる価値より多くの価値を生産する。その差額が資本家の利潤りじゅんの源泉だ。ここに搾取さくしゅの構造がある。さらにマルクスは商品の物神性ぶっしんせい(Warenfetischismus)を論じた ― 人間と人間の関係が、物と物の関係(商品、貨幣)として現れ、社会の真の関係が見えなくなる現象で、後年この主題はルカーチらにより「物象化(Verdinglichung)」として再提示される。資本主義は人間の活動そのものをする構造として、隅々まで解剖された。

第1巻は思想界に衝撃を与えたが、部数は伸び悩んだ。マルクスは第2・3巻の執筆を続けたが、健康は悪化の一途をたどった。未完の草稿はエンゲルスが整理し、マルクス死後に第2巻(1885)・第3巻(1894)として刊行した。

「死後に」― そう、この本の完成を、彼は見届けられない。物語は終わりに近づいている。

09ふたたび、書斎の椅子へ

1864年、国際労働者協会 ― がロンドンで設立された。マルクスは創立宣言と規約を起草し、事実上の理論的指導者となった。ヨーロッパ各国の労働運動、共和主義者、アナキスト(国家の権力そのものを否定する立場)が、初めて一堂に会した組織である。内部対立、特にとの権力闘争を経て1876年に解散するが、国際的な労働運動の萌芽ほうがとして歴史に刻まれた。

晩年のマルクスは、病苦と格闘し続けた。1881年12月、妻ジェニーが長い闘病の末に死去した。マルクスは「彼女は私の最良の部分だった」と語ったという。1883年1月には、長女ジェニー・ロングランも先立った。肉体も気力も、急速に衰えた。

そして1883年3月14日の昼過ぎ。物語は、冒頭の場面に戻ってくる。書斎の肘掛け椅子で、マルクスは息を引き取った。ハイゲイト墓地に集まったのは11人。『資本論』の部数は伸び悩んだままで、彼は亡命者のまま死んだ。エンゲルスが弔辞で何を語ったか、私たちはもう知っている。後年、娘のエレノアとラウラは、いずれも自ら命を絶っている。

11人の葬儀と、やがて世界を覆う思想。この落差こそ、彼の生涯の答え合わせなのかもしれない。生きているあいだに世界は変わらなかった。それでも彼は、変えるための道具 ― 疎外、という概念がいねん ― を残して逝った。

あなたが今日働いて受け取る給料。その決まり方の中にも、彼の立てた問いは眠っている。働くことは、あなたを豊かにしているだろうか。それとも、あなたから何かを切り離しているだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. プロイセン・トリーアに誕生。父ハインリヒは既にプロテスタントへ改宗済みのユダヤ系法律家
  2. ボン大学→ベルリン大学。ヘーゲル左派に参加。イエナ大学にて博士号取得
  3. 『ライン新聞』編集長。検閲・廃刊。ジェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。パリ移住
  4. 『ユダヤ人問題によせて』『経済学・哲学草稿』。エンゲルスとパリで出会い生涯の協働始まる
  5. ブリュッセル亡命。エンゲルスと『ドイツ・イデオロギー』執筆(史的唯物論の確立)
  6. 『共産党宣言』刊行。ヨーロッパ各地で革命。革命失敗後にロンドンへ追放
  7. ロンドン定住。大英博物館図書館での研究。貧困の中で7人の子のうち4人を失う
  8. 第一インターナショナル(国際労働者協会)設立に参加、創立宣言を起草
  9. 『資本論』第1巻刊行。剰余価値・商品の物神性・商品論の体系
  10. 妻ジェニー死去
  11. 3月14日、ロンドンにて死去。享年65。ハイゲイト墓地に埋葬。エンゲルスが弔辞

残した思想の輪郭

  • 疎外 ― 労働者が自らの労働・生産物・他者・類的本質から切り離される資本主義の構造的現象
  • 史的唯物論 ― 歴史を動かすのは精神ではなく物質的生産関係。経済的土台が上部構造を規定する
  • 剰余価値 ― 労働者が生み出す価値と賃金の差額が搾取の源泉であるという資本主義分析の核心
  • 階級闘争 ― すべての歴史は階級間の闘争の歴史であり、資本家階級と労働者階級の矛盾が社会変革を駆動する
  • (Warenfetischismus) ― 人間関係が商品・貨幣という物の関係として現れ、社会の真実が隠蔽される現象(後年「物象化(Verdinglichung)」として受け継がれる)
1883年3月14日、ロンドンの書斎の椅子で眠るように死去。65歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

マルクスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • カール・マルクス・ハウス生誕

    トリーア, ドイツ — Karl-Marx-Haus

    1818 年の生家。F・エーベルト財団が運営する伝記博物館

  • ハイゲート墓地 (マルクス墓所)墓所

    ロンドン, イギリス

    有名な巨大胸像と「万国の労働者よ、団結せよ」の碑。東側墓地

  • 大英図書館 (旧閲覧室跡)所属

    ロンドン, イギリス

    『資本論』執筆の舞台。旧大英博物館円形閲覧室はブルームズベリーに現存

さらに辿るならExternal References

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